水仙弁

 愛蘭家たちは水仙の花弁の形状と蘭花の水仙弁を比べその形があまり似ていないと思う。ではなぜ水仙弁と命名したのだろうか?
 清朝嘉慶年間方時軒が著した《樹尓ム》に“世俗以 巧花謂之仙,不知何義?是始有仙气焉。” と記載がある。このことから約200年前先人たちは水仙弁の創意を探索していたことが分かる。そして“是始有仙气焉’”の一節がもやもやを払ってくれる。
 水仙はまたの名を“凌波仙子”という。この美しい名は曹植の《洛神賦》のなかのFu妃の 神形から取ったものである。先人たちは洛神の美しい姿を借りて国蘭中の“仙”を創出したのだ。曹植は《洛神賦》のなかで洛神の姿の美しさを賛美していわく:“濃纖得、修短合度、肩若削成、腰如束素。”“延頚秀項、丹唇外朗。”
 我々はこういった洛神を賛美する詩句をもって国蘭の水仙弁の形態を対比したのだ。両者は実によく合致することが分かる。このことは先人たちの創意の妙に驚嘆せずにはいられない。いかに彼らの文化芸術の素養が深かったかまさに羨むばかりだ。先人が国蘭の水仙という花芸を創出した本来の意味が分って嬉しい。このことから分かることは、梅弁が主に円の美を観賞することであり、水仙弁はその線の美を鑑賞することを基準とすることである。しかしその共通した特徴はどちらも人体の美しさを基礎としていることで、神仙の姿の美しさを重ね合わせて蘭を観賞することこそ水仙弁の境地であろう。

注 fu妃 ウ冠に必 以前紹介した神話 嫦娥奔月 の嫦娥のことだという説もある。

荷弁は蓮の花に似て、梅弁は梅の花に似ている。しかし水仙弁は水仙の花に似ていない。このことから水仙をその形態ではなく会意とする考えがあるが、賛成できない。これはその蘭の中宮が水仙に似ていることから水仙弁と名づけたのでは。

春宸フ荷弁、梅弁、水仙弁と言うのは別に植物学分類ではなくいわゆる俗称であるから別に水仙弁が水仙に似ていようと似ていまいと皆がそういうならどっちでもよいのでは

そもそも蘭の美しさを語るのに何も荷弁だの梅弁だの水仙弁だの分けなくても良いじゃないか。

こうやってあれこれ考えを巡らすのも蘭の楽しみにひとつだろう。

江浙春宸フ弁型理論では荷弁、梅弁、水仙弁と分けている。しかし水仙の花に似ていないのにどうして水仙弁と言うのだろう。中国の水仙は日本のと違うのだろうかなどと思ったものだ。
中国の愛蘭家たちもこの疑問を感じているようで次のような書き込みがあった。

これに対していろいろな意見が

少しこじつけのような気もするが。。

いずれにしても中国の先人たちの素養の深さ、蘭に対する思い入れの強さがわかる。我々や現在の中国蘭人がいかに浅薄であるか深く反省。。

最近の蘭
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