環球荷鼎の話

民国16(1927)年、上海のある初夏の一日のこと。

 りんりんりん、泰興路の張花園の従業員宿舎で電話がけたたましく鳴った。25歳の若い従業

員諸漲富が受話器を取ると、”もしもし、諸さん、わたしはYu(諭の右側)正泰ペンキ屋の番頭で

すが、社長が緊急にあなたに相談したいことがあるのでこちらへ来て欲しいそうです。”
 
 諸漲富は4年前自分がまだ江湾花園で働いていた頃、主人の徐甫son(草冠に孫)が60過ぎの

花友を連れて花園に遊びに来た時のことを思い出した。その人はとても立派な身なりでにこにこ

と嬉しそうに諸漲富にうなずくと彼のことを”お兄さん”と呼んだ。彼こそ上海で有名な蘭の趣味

者Yu致祥社長だった。

 こうして顔見知りになってからというものYu社長はしょっちゅう江湾花園に花を見に来て、諸漲

富と蘭について見識を深め合った。数年もするとお互いに気心も知れてきた。ある時Yu致祥は

、彼に上海の愛蘭家郁孔昭が800銀元で買ったあの“荷鼎”という蘭を実際に見たことを話した

。(郁は荷弁中第一位の蘭という意味で荷鼎と命名した)その花は丸く、しかも收根放角で緑色

の中に紅、黄を含んだ柔らかな色合いで、目を奪われるほど美しい蘭で荷型花中まさに第一の

ものであった。残念なことにこの蘭は何度か人手に渡るうちに枯れてしまった。諸漲富は黙って

注意深く聞いた後こう語った、”あの花は絶種していませんよ。私はあなたのおっしゃる蘭農を

知っています。彼と私は同じ村の隣の里ですから。彼は家にまだあの蘭を残しています。” ”な

んだって、まだあるって?” ”はい” 根が真面目な諸漲富はうなずいた。こうしてうっかり口を

滑らせたばっかりに思いもかけず、Yuが日に日に江湾花園にやってきては、その蘭農が手元に

残した“荷鼎”を金に糸目をつけないから何とかして欲しいと頼むのだった。

 主人徐甫?の許しを得て、民国13(1924)年の諸漲富はとうとうYu致祥を伴い、相談すべく

紹興へお隣さんを訪ねた。同郷のよしみということで500銀元で残った6,7本を譲ってもらった。

 もちろんこの取引のことは絶対に秘密にするようYu致祥に言い、あの郁孔昭社長がかってこ

の蘭を買って枯らしたのだから、揉め事が起こらないよういかなる状況下でも,いかなる時でも、

絶対口外にしないよう念を押した。

Yu致祥は天にも登る心地で自ら“荷鼎”を紹興賈山頭村から上海に持ち帰り、秘密裏に自宅の

蘭舎で育て事の仔細は親友の徐甫?にも知らせなかった。彼は心の中に自分ひとりだけしか持

っていないという満足感と誇りをつのらせ、天下広しといえどこの蘭を持っているのは自分だけ

だと誇らしく嬉しさもひとしおであった。そして以前の“荷鼎”と区別するため“環球”の二字を加

え“環球荷鼎”と呼ぶことにした。つまり”天下第一、世界中で一番の荷弁花”という意味である。

 あっという間に三年が過ぎた。

 諸漲富は電話で呼び出しを受けその日の午後にYuの家にやってきた。江南はすでに五月の

陽気だったが、Yu致祥は床に伏せっており、厚い赤い絹と綿でしつらえた布団を被り、蒼白な中

に黄みを帯びた顔色をし、ほほ骨が突き出し,一目で病状が重いことが分かった。諸漲富は心

中こう思わざるを得なかっ.た。この病状を我々紹興人は”黄砂が顔を覆う”といいこの症状まで

進むと十中八、九すぐにも死んでしまうであろう。Yu致祥は客人を招いたが、かってのような元

気さはなく座るように手振りで示した。彼に枕元に座るようと言っているのだった。家人が捧げ持

ってきたのはお茶ではなく、一鉢の蘭であった。Yu致祥は声も切れ切れに”この蘭は。。。の宝

で。。。私の。。。同じだ。”

 ああ、これは3年前私が仲介をして故郷で500銀元で買ってきた蘭ではないか。枕もとの椅子

に座った諸漲富は懐かしく思い出し上体を近づけてよく見ると、この幅をひいた矮性の肉厚の蘭

はバックはすでに黄ばみ、新芽は出ておらず、四本は色あせ残りの数本も葉先が黒くなってい

た。葉の窪みにはカイガラムシが見られた。諸漲富は表面上は、声色を変えなかったが心中と

ても残念に思い、思わずああ!と小さく声を上げてしまった。しかしYu致祥はその声を聞くや両

手に力をいれわが身を起こして話そうとしたがもはやその力さえもなかった。彼はただ落ち窪ん

だ両目を見開き彼に懇願した、”お兄さん、何としても。。この蘭を。。助けて。。やっておくれ。”

ああ、この世にはこんなにも蘭を愛する人がいるのか。自分の命がまさに尽きんとしているのに

この蘭のことをこんなにも心配している。諸漲富は深く感動し不覚にも熱い涙を眼にたたえ頷く

や丁重に言った、”ご安心ください”立ち上がるやベッドのYu致祥に深く深く一礼した。彼はこれ

を聞き、一瞬嬉しそうな表情を見せた。家人に見送られ、この今にも枯れそうな蘭を捧げ持った

諸漲富はYu致祥に別れの言葉を告げた。これが本当に永遠の別れとなってしまった。この“環

球荷鼎”のそのごの運命やいかに?

あの日、 余命いくばくもない余致祥に別れを告げた諸漲富であったが、頼まれたとうりに今に

も枯れそうな“環球荷鼎”を自分が働いている張家花園で育てようと思った。道々考えるに、後

に徐甫?社長がこれを見たとき、自分のものだと言ってへんに誤解されたらどうしよう。あれこれ

考えると、身を返し唐?のもとを訪ね、唐さんにしばらく預かってくらるように頼んだ。彼は快く引

き受け、諸漲富にできる限り見に来るように言った。
 
 半月が過ぎ、ちょうどよい機会が訪れた。徐甫?社長の委託を受け、お馴染みの愛蘭家を彼が

集めた蘭と交換する品種を持ってたずねることになった。自然の流れでまず親しい友である席

裕全の家へ行った。席さんは蘭に対する造詣が深くまた養蘭の環境も特別よかった。彼の家の

前には大きな蓮池があり、傍らには築山があり周囲を大木が覆い直射日光をさえぎり環境は静

かで、庭の南側に二箇所花台があった。諸漲富は考えた。私は何で真っ先にここにあの環球荷

鼎を持ってこなかったのだろう。相談の後、彼はまたおなじみさんのところへ行くついでに唐家に

預かってもらっていた環球荷鼎を席家で育ててもらうことにした。席さんは蘭を愛すること子を愛

するが如し、この蘭が枯れないよう、水遣り、施肥は言うに及ばず殺虫、殺菌などあらゆること

に誠心誠意管理に勤め、強風に葉が傷まないよう竹串を差し支え、さらにこの蘭のために記録

表を作り、折に触れ蘭の生長変化を記した。席さんの心のこもった愛護のもと、この環球荷鼎は

この年二芽吹き、数年もすると小苗だったものが大株となり四年の後、とうとう開花した。優雅で

心和ませる葉姿、ほのかな芳香のする美しい花を見ると、二人の蘭友はこの上なく幸せな気分

に浸るのだった。
 
 多くの人たちはこの環球荷鼎がよい花であることは知っているが、諸漲富と席裕全二人の愛

蘭家が今にも枯れそうな珍品を生き返らせたことはごくわずかな人しか知らない。このことは代

々伝えていくべきであろう。
 
 時は流れ1962年、中日友好協会の有名人松村謙三氏が中国を訪れた折、敬愛すべき周総

理が杭州西子湖畔の迎賓館で彼を迎えた。別れに臨み、総理は一鉢の環球荷鼎を松村氏にお

土産として送った。

 松村氏は帰国後、この蘭を中国人民の日本人民に対する貴重な友愛の象徴として、値をつ

けようもない宝物として誠心誠意培養した。
 
 1981年11月、松村謙三氏のご子息正直氏も父君が足跡をしるした中国の地に降り立った。彼

は日本蘭花友好訪中団を率い杭州、紹興等の地で蘭を視察し,かつて周総理が彼の父君に送

った環球荷鼎を一鉢携えその蘭のふるさとである紹興に送った。
 
 一鉢の蘭、一席のよい話、一連の物語は中日両国民の蘭友間の友情の象徴として蘭宸フ香

りのように永遠足りうるであろう。

最近の蘭

環球荷鼎採取当時の話はまたいつか。。

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