老十円の話

言い伝えによると1850年浙江省余姚の張聖林が発見したとされる。 十円、また集円とも

 落帆亭の後方に“修拡寺”というお寺があり、毎日朝晩、ここを通る船の水夫たちは遠くで鳴るゴーン、ゴーンというゆっくりとした荘厳な鐘の音を聞くことができた。いつからともなくこの落帆亭と修拡寺はここを通る船の道しるべとなった。ある日の午前中、大きな木造船が落帆亭のまえに停まり船倉から髪髭ともにごま塩の痩せた旅の僧が現れえいっと岸に飛び降りた。彼は頭を上げると黄色い塀に囲まれた山門に書かれた“修拡宝刹”という4つの大きな字を確認し門をくぐり、お寺の中の和尚をみるや急いで両手を合わせ“阿弥陀仏”を唱えた。彼が黄色い図他袋から皿を取り出すのを見て当寺の和尚は食べ物を与えた。毎日寺の僧たちと一緒に念仏を唱えるほか、暇な時間は寺の裏の菜園で働き数日もしないうちに寺の僧たちとも打ち解け、仲良くなった。しかし雲水はこの寺に属しているわけではないので、いつまでもとどまるわけにもいかず数日後には修拡寺に別れを告げた。

 光陰矢のごとく、月日もまた梭のごとし。一年があっという間に過ぎた。次の年の早春2月、運河の端の葦の芽がやっと水面に顔を出してきた。ある日あの雲水が突然また修拡寺訪ねてきた。左手に一束の蘭、右手に黄土を詰めた布袋を提げ、蘭が植えられそうな鉢を探すと一息にそれらの蘭を植え込み菜園に並べた。環境が良かったのか、一月もたたないうちそれらのうちの多くの蘭が良い香を放ち始めた。僧たちはとても喜び、この鉢あの鉢と香をかぎ口々に“良い香だ、本当に良い香がする。”といった。みなてんでに蘭を一鉢一鉢と捧げ持ち大雄宝殿の前の左右の石の上に置き、寺に来る信者や香をかぎに来るものに供した。人は“縁あってはるばる会いにやってくる。”とよく言う。これらの蘭が咲いて嘉興の多くの愛蘭家たちを寺に引き寄せその中の南湖のあたりに住む楊という老人とこの雲水は特に気が会い友情を深めた。話しているうちに老人は雲水の蘭が四明山からやってきたことを知った。

 この嘉興の地は浙北杭嘉湖の三角州に位置し、江南の豊富な水産、農産物の産地で古来軍閥の必争の地であった。清朝咸豊末期になると清軍と太平軍がこの一帯で激烈な争奪戦を展開した(歴史上三屠嘉興という)。その時人々のある者は死に、ある者は逃げ出し嘉興の町は荒れ果てた。楊老人一家は早々と脱出したので難を逃れることができた。間もなく戦いも収まり、老人もふるさとへ帰ってきた。しかし多くの親戚知人を亡くし修拡寺もまた荒れ果てていた。ただ落帆亭だけは元のままで、悲しむべきはあの自分と友情を結んだ旅の僧は生きているのか死んでしまったのか行方知れずであった。老人は一人あたりをさまよったがさびしく落帆亭のあたりに腰を下ろし、とうとうと流れる運河を眺め涙を流した。
 

数日後、楊老人は田舎に赴き親戚を尋ねた。途中彼は突然ポクポクという木魚の音を聞き、続いて“南無阿弥陀仏”という声が聞こえた。老人が耳を澄ますとよく聞きなれた声であった。”あっ!あの人だ!“この思いがけない再会に彼は嬉しさに声を失った。二人はあいまみえいろんな思いが錯綜した。雲水は考え深げにこう言った。”本当に大変な災難でしたな。私は各地を修行しに戻らねばならず定住することができない。ぜひともあなたに頼むしかない。早く修拡寺へ行って蘭を助けてくだされ。“

次の日、楊老人は修拡寺へ駆けつけ瓦礫の山を前にし蘭を置いてあった場所を探した。瓦礫を掻き分け石を押しのけとうとう蘭を探し出した。ほとんどが枯れてしまっていたがたった一鉢だけ緑の葉を数片残していた。 彼は優しくこの緑の蘭を拾い上げ家に持って帰り植え替えてやった。

老人の丹精込めた培養のすえ、翌年蘭は新芽を数本吹き同治の頃になると大株が10鉢ほどになった。この後花芽をつけ開花し老人はとても喜んだ。さらに彼を喜ばせたのは再び今咲いたこの花はいろいろ変化するということだった。同じ鉢の蘭に梅弁花或いは梅型水仙弁花さらに杏子型弁と千差万別で本当に得がたいものであった。老人は感慨深くこの蘭をながめやり、またあの雲水を懐かしく思い出した。心の中で、旅のお坊さんはいつも手を十の字に合わせておられる。この花は三弁まん丸で一文字形の平肩咲きで、下部の花茎を加えるとまさに“十“じゃないか。じゃあこの花に”十円”という名を付けることにしよう、と考えた。

戦後数年のうち、多くの蘇北人、紹興人、杭州人が次々嘉興に越してきて、町はたちまち活気を取り戻した。咸豊二年春、余姚の愛蘭家張聖林が嘉興にやって来た。そして楊老人が南湖の端で長年蘭を愛培し品種も多く良いものを持っていると聞き老人の住まいを探し出した。家に入ると老人宅の蘭はまさに満開で、特に一鉢三弁が広くきりっと締まった丸い花があり、すぐに老人にこの花を買いたい旨を伝えた。しかし老人はこう言った。“この花は私のものではありませんのじゃ。” 張聖林はこのことを聞くと少しがっかりした。でも老人がこの花の由来を語るのを辛抱強く聞くうち、老人の気持ちが理解できた。張聖林が遠く四明山からやって来たことを知ると老人は安心してこう言った。“私はもう年だ。願わくばこの大難に会っても枯れることのなかった花をふるさとへ連れて行ってくださらんか。これは私もあのお坊さんも同じ気持ちですじゃ。” 張聖林はこの蘭を捧げ持ち至宝を得たかのごとく何度もうなづき“必ず、必ずやそうします。”

張聖林はこの蘭を得た後、余姚へ持って帰り数人の蘭友に分け与えた。彼らは長年の愛培を経て十円というこの花がいろんな咲き方をすることに気づいた。弁の形が違うばかりでなく、花茎に青軸、赤軸の違いがあることもわかり後の人々はまた“集円”とも呼んだ。

清朝道光後期、大運河は南北交通の要所であった。その蘇州、杭州の両岸は天に接し、広々とした水面には多くの舟が流れを競っていた。しかし横にそれて嘉興に入る時は全ての舟がまず帆を降ろし、帆柱を倒さないと低く狭い“端平” “北鯉”2つの橋をくぐることができなかった。橋の前の“落帆亭”はこのことから名が付いた。

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